補助線を引きたい

 

昨夜、電車内で複数の人が刃物で刺される事件があった。被害者のうち一人は7箇所を指されて重傷だという。さらに加害者は別の車両にサラダ油を撒いて火を付けようともしていたという。これがガソリンだったら京アニ事件の再現である。

加害者は「女性が憎かった」と供述している。命を取り留めているとはいえ、疑問の余地がないフェミサイド(女性憎悪を動機とした殺人)であり、差別を動機とするヘイトクライムの一種である。

被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げるとともに、こういう犯罪の土台となる、日本社会のミソジニー女性差別を厳しく糾弾する。

さて、本題はここからだ。

 社会にある性差別と性暴力を告発し批判するムーブメントが #MeToo 運動として2017年から世界を駆け巡り、日本においては #KuToo 、フラワーデモといったムーブメントが2019年に始まった。いずれも性差別を告発する重要な動きとして歴史に残るだろう。

ここで、たとえば #KuToo において「女性がパンプスを押しつけられて大変なのはわからなくはないが、男性だってネクタイで苦労しているのだ」「どちらも苦労しているのだからそれは性差別ではない」と言われたら、あなたはどう返すだろうか。

これは、どちらも性差別(=セクシズム)なのだ。

もっと古典的な例を挙げると、「女は勉強しなくても/働かなくてもいい」というのが「女性優遇だ」と言われたら「フザケルナ」と激怒するだろうし、それは正しい。
では、そういうことを言ってくる人(ほとんどの場合は男性だろう)にこちらの言うことを理解させるためにどうすればいいのだろう。ただお互いに大きな声を出し合って、相手より大きな声を出し続ける以外にないのだろうか?それはあまりに苦痛な闘いではないだろうか?

そこで、共通理解をするための補助線を引きたい。それは「(資本主義的)家父長制」である。

家父長制そのものは人間社会の中で長年にわたって存在した構造だが、近代社会(資本主義社会)においてそれは「資本家階級が労働者階級を支配するための道具」として機能する。

ごく簡単に言うなら、世の中を男性と女性に二分し、男性には「労働者として働き、資本家の利益獲得に貢献する」こと、女性には「労働に対するケアと再生産=生殖や家庭の維持」を要求する。

この補助線を共通認識とすることで、女性への抑圧を理解させる土台ともなるし、男性への抑圧が「女性が原因ではない」と理解させる土台にもなる。どんな立派な家を建てても基礎が弱ければ崩れてしまう。

さて、この「家父長制」を社会に押しつけ続けるためのイデオロギーが2つある。それが「異性愛規範」と「性別二元論」だ。

異性愛規範および性別二元論を前提として、特に女性には「男性にケア要員として好まれる服装・振る舞い」が求められる。同性愛は生殖に繋がらないので歓迎されない。性別越境もジェンダーを撹乱するので、やはり歓迎されない。これが資本主義的家父長制だ。杉田水脈衆院議員の「LGBTは生産性がない」発言、簗和生衆院議員の「種の保存に背く」発言、さらに白石正輝足立区議会議員の「足立区が滅びる」発言はいずれも資本主義的家父長制を擁護する発言である。さらに、文脈としてはLGBT差別であると同時に、女性のリプロダクティブヘルス・ライツを否定する女性差別でもある、として捉えたい。

差別には色々な軸があり、それぞれに被害がある。それを語り共有することは、たんに差別被害の告発にとどまらず、被害者どうしのケアにもなり、連帯をつくることにもなる。
ただ、「被害を語る」ことが「より悲惨な被害者を見つける競争」になってはいけない。それでは二次加害が起きてしまう。

様々な差別の根源を辿り、その交差する部分から「差別の土台」を見つけるのが「インターセクショナリティ」概念だ。インターセクショナリティは、異なった差別に苦しむ人びとが連帯するための土台である。

最近、インターセクショナリティを「女性差別の深刻さから目を背けさせる」といって否定するクラスタが存在するようだ。しかしそれは逆だ。むしろ他の課題で社会的正義を求めて行動している人と性差別の解消においても連帯し、問題解決への勢いを強化する土台がインターセクショナリティである。