書籍「トランスジェンダー問題」においてセックスワークはどのように論じられているか

これは、先日のエントリー

k2g.hatenablog.com


の続きのような内容です。同じ問題意識に基づいて書いています。

上記エントリー末尾にあるとおり、この本(以下「本書」と記載)は「トランスジェンダーについて」論じるために書かれました。
したがって、私がどう考えているかというのは脇において、「著者がどう論じているか」に着目します。

本書は7つの章とそれを挟むイントロダクション・コンクルージョンで構成されています。

7つの章のうち1−5章は主として現在トランスが経験する様々な困難について論じており、章が進むごとに内容が積み上げられています。
4章が「セックスワーク」(原題はSex sells)ですが、このテーマを独立させて論じる筆者の問題意識は、3章の末尾から読み取ることができます。
3章は「階級闘争」と題されていますが(原題はCrass struggle)、トランスの労働・就労がテーマです。

3章末尾の記述を丸ごと引用します。

白人でないこと(有色のトランスは白人トランスよりも職場での差別を経験しやすい)、あるいは障害があることは、そのトランスパーソンを貧困に陥らせやすいことが明らかである。〔トランスジェンダーという〕最も脆弱な人々にとって、このような複層的な抑圧は、人々を暴力と貧困のより大きなリスクに直結させ、そのリスクにさらす。それだけでなく、これらの複層的な抑圧の状況は、LGBTQ +系の組織のアドボカシーと専門的なロビー活動〔が想定している状況〕からはかけ離れている。他の全ての産業よりも、依然として世界で非常に多くのトランスの労働者たちが従事する、そんな1つの産業が存在しているのは、これらの困難が広く普及している結果である。その産業とは、性産業である。(p224)

トランスの中でも特に脆弱な人々が多くセックスワークに追い込まれていること、それを多くのLGBTQ+組織が想定していないことを問題視するところから4章が始まります。

さてここで、一旦回り道をして、1章「トランスの生は、いま」に戻ります。

アレックスというトランスの少女と彼女を支える理解ある両親への聞き取りを軸にしながら、「周囲にいる人の影響を強く受ける」若年や高齢のトランス、それを支える人たちが(特にトランスの子を持つ親が)ぶつかる特別の困難について論じています。
トランスの子に性別移行を認めた親に対してトランスヘイターが「虐待だ」として訴えたケースも紹介されています(幸いにして不当な訴えは退けられたようですが)。

この1章の中に重要な指摘があるので引用します。

2018年に実施された、 UK政府による LGBTについての国勢調査は、 LGBTの人々についての他に類を見ない過去最大の調査だが、その調査結果によれば、 44%のトランスの人々は、否定的な反応を恐れて家では自分のジェンダーアイデンティティをオープンにすることを避けている。その調査はまた、トランスの若者が恐れている否定的な反応がどのようなものかについての洞察も提供している。 27%が過去に一緒に住んでいた人から言葉のハラスメントを経験したと答えている。 5%は、一緒に住んでいる人から身体的な暴力を受けたことがあると回答している。ショッキングなことに、いずれのケースにおいても最も割合の高い加害者は両親だった。家族から拒絶され、家族から距離を取られることは、長期にわたる深刻な健康への影響を与える。それらは物理的な影響も与える。あるトランスの子どもたちにとっては、家を出ることが唯一の選択肢である。そうでないトランスの子どものなかには、選択肢が一切ない子もいる。両親によって家から追い出されるからだ。結果として、英国のトランスのティーンエイジャーや、若い成人のトランスは、同年代のシスジェンダーと比べてはるかにホームレス状態を経験しやすい。(略) aktは、 1989年から LGBTQ +の若者に安全な住居を与え、支援を続けてきた慈善団体である。その aktが実施した調査によれば、ホームレス状態の若者の 24%は LGBTQ +を自認している。そのうち 77%について、ホームレスになった原因は基本的には、セクシュアリティジェンダーアイデンティティに関連する、家族からの虐待と拒絶である。マイノリティの中のマイノリティとして、ホームレス人口に占めるトランスの若者の割合は不釣り合いなまでに大きい。 4人に 1人のトランスの人々が、ホームレス状態を経験したことがあるのである。(p77-78)

家族から拒絶されて家を出た、あるいは追い出されたトランスはどこへ行くのでしょう。
上記引用部分の少し後には、帰る場所を失った若者を保護するシェルターが極端にジェンダー化され、シェルターに頼れない状況を指摘しています。
ティーンで家から離れ、シェルターにも頼れないとなると、その時期に必要な教育を受ける機会も失うことになります。そういう状況にある人たちは、教育を充分に受けた人にくらべて就労でさらなる困難を抱えることになります。

第2章は医療がテーマですが、有名になったUSのトランス女性であるラヴァーン・コックスの発言として以下のものが紹介されています。

私たちの失職率は全国平均の 2倍です。もしあなたが有色のトランスだったら、失職率は平均の 4倍になります>(p119)

これは3章末尾の記述とも重なります。

また、記述が散らばっているので引用はしませんが、2章では標準医療システム(UKの場合はNHS)がトランスのニーズを反映しておらず、やむをえず自費で高額な医療介入を受ける事例がいくつか(筆者の体験を含め)紹介されています。
ここにも階級の問題が絡んできます。商業的に成功して資産を得た人は性別移行が容易になります。そして、そのような人が可視化されやすいため、トランスはみんなそうであるかのように誤解され(これはイントロダクションと繋がります)、不可視化されたトランスのニーズが見落とされていくのです。

3章では、就業において求められる「外見的審美性」がトランスの(特に有色トランス女性の)就労困難を招いていることが指摘されています。この点で金持ちは圧倒的に有利なのです。貧困は性別移行して生きることに困難をもたらし、そのことがまた貧困をもたらし、性別移行を困難にする、負のスパイラルが存在しています。その複合的な状況がセックスワーカーの中にあるトランスの偏在を招いている、にもかかわらずLGBTQ+組織から見落とされている、というのが、冒頭で挙げた3章末尾の指摘です。

さて、ようやく4章です。

とりわけ重要なのは、以上みてきたような1−3章での議論をふまえた以下の主張です。

トランスたちは、家族からの拒絶やホームレス状態を経験しやすく、そこにさらにヘルスケアのまとまったコストが加わり、セックスワーク以外の労働のあり方を確保することにも苦労する。それが、性を売るというスティグマ化された労働に多くのトランスたちが従事している理由である。そして私たちがすでに見たように、トランスのセックスワーカーたちは、独特で深刻な形態の、傷つきやすさと暴力を経験している。それゆえ、セックスワーカーの権利と安全の問題は、トランスの解放運動の中核になければならない(p237)

この部分の前には、トランスのポルノを消費するひとたちの多くがトランス差別的でもあることを、様々な実例を挙げて指摘しています。(シスジェンダーの)女性を欲望する男性が極めて女性差別的である場合もあるというのは知られてきていると思いますが、トランスに対しても同じですが、著者はとくに一定の男性にとって

トランスジェンダーだと分かってトランスジェンダーの人を見ることになる最初の機会、あるいは実際のところ唯一の機会が、そうしたポルノ視聴だということ(p231)

を批判的に示しています。

他にも引用してみます。

トランスマスキュリンやノンバイナリーのトランスなどは、女性をアイデンティファイしないにもかかわらず、自分たちを「女性」として顧客に売り出すことになる(p229)

という記述も、多くの人に気付かれない「トランスのセックスワーカー」についての重要な指摘でしょう。

今日のトランスのセックスワーカー、とりわけ移民であり、かつ/または有色であるワーカーたちは、政治的な力や経済的な力を欠いた複数の政治グループに広がっており、そのため、いつも重要でない存在として扱われている(p240)

脆弱な人々ほど周縁化され、その声が聞かれず、よりリスクのある立場に追い込まれていく状況が描かれています。

2017年、欧州5ヶ国で行われた調査をもとに

最近 12ヶ月でセックスワークに従事したことのある人の 70%近くは、生きていくお金を得るためにセックスワークをしようと決めた。そしてほぼ 40%が、その仕事を選んだ主な理由は賃金を得る他の機会がなかったからだと回答した(p241)

と示しています。

トランスの人たちは、しばしば他のトランスたちと共に働く機会を支援の源として捉えている。セックスワークは、トランスたちにとっての帰属先と家族の感覚を提供するコミュニティを生み出すことがある(p242)

という記述が「セックスワーク肯定的」として批判されていますが、ここまで見てきたように、白人・中産階級が中心となっているLGBTQコミュニティにリアルで接触する機会がなかった人にとって、収入とともに「ようやく自分とおなじ人たちに出会えた」という帰属感を持つのは充分にあり得ることであり、その事実をただ記しただけなのではないでしょうか。

そして、こう展開します。

トランスのセックスワーカーたちにとって、解放とは何を意味するだろうか?  ひとつ、何よりもここから始めるとよいのは、ワーカーたちの安全に焦点を当てることである

フェミニズムにおいてセックスワークの捉え方について2つの大きな流派があることを示し、両者の考え方をおおまかに紹介したうえで、

性的サービスの「需要を断つ」ことから、ワーカーのためのハームリダクション* 18へと、焦点は移っていく(p244)
<「あらゆる形態のセックスワークの完全な非犯罪化〔 full decriminalization〕が、トランスの権利運動の中心的な教義でなければならない>(p255)

と筆者のスタンスを明確にします。

非犯罪化は、アムネスティ・インターナショナル世界保健機関( WHO)などの、大きな人権組織が掲げる政策的立場でもある(p255)

とも紹介しています。

この後には筆者と異なるスタンスのフェミニストが要求する「北欧モデル」と呼ばれるシステムを導入した国々で起きている様々な問題を紹介し、「非犯罪化」の実例としてニュージーランドの状況を紹介しています。
4章は次の言葉で締めくくられます。

<私たちのことについて、私たち抜きで決めるな>

著者が言うように、セックスワークをめぐるフェミニズム内の論争は複雑で多岐にわたり、ひとつひとつの論争点だけで本ができてしまうような内容です。
ただ、本書はあくまで「トランスジェンダーについて」書かれた本です。その内容すべてに賛同できない読者がいるのは当然だし、賛同できない部分については保留なり批判なりすればいいと思いますが、それなりの論拠を示す必要はあるでしょう。少なくとも著茶による議論のうちどの段階を問題視しているのか、明確に示さなければなりません。
とにかく、トランスジェンダーの人権を人質に取るようなかたちでセックスワークに関する「論争」をするのはやめてほしいです。そこが焦点化されることによって、トランスが抱える様々な社会課題に目が向けられなくなります。それは、トイレや風呂を持ち出してトランスを「議論」しようとする人たちと大差ない行為です。本書はイントロダクションでそういった姿勢を明確に批判しています。

 

参考文献 —『トランスジェンダー問題——議論は正義のために』ショーン・フェイ著