「論座」におけるトランス差別扇動を検証する

論座」にLGBT関連法をめぐる論考が掲載された。著者は千田有紀氏(武蔵大教授)である。 5ページにわたっており、女性やLGBTの権利擁護について近年保守派が関心を示していることを挙げ、「権利擁護=左派、とは限らない」として「ねじれ」があることを強調し、トランスジェンダーをめぐる「緊張関係」を訴える。

印象としては「現代思想(20年3月臨時増刊号)」に掲載された「論考」に比べ、より慎重に、より丁寧に「両論併記」を行い、「差別だと指摘されない」ように言葉を重ねる巧妙さは向上しているなと感心する。 ラディカルなトランスフォーブからみれば「物足りなく」感じるであろうし、逆にトランス差別に関心が薄い人からすれば「上手く納得させられてしまう」ような危険性を持っている。
実際、既に千田の姿勢に取り込まれ、それに対する批判を「トンデモだ」と非難する学者もいる。
ただ、やはり「両論併記」の形を取りつつもトランスフォーブの主張を盛り込み、批判を矮小化する流れを作っていることには違いがない。著者本人がどう意図しているかにかかわらず、トランス差別を「それと気付かれないように煽る『犬笛』」としての働きがあるのではないか。

いくつか指摘しておきたい。

(なお、元の記事は下記リンク。アーカイブにしてある)

http://archive.today/eyDlr

 

千田氏は「近年、アイデンティティは多様化してきており」と主張するが、「近年になって多様なアイデンティティが存在するようになった」のではない。「従来は別の枠の中に無理やり押し込められてきたアイデンティティが認められるようになってきた」とするほうが実態に近いであろう。

(6/29追記:

千田氏は法案をめぐって現れた山谷えり子参院議員の発言とそれに対する批判を取り上げている。当初は山谷の発言と思われたLGBT全体を敵視する発言は別の議員のものと判明した。山谷はトランスジェンダーのみをターゲットにしていたのだ。そして、従来からジェンダーバッシングの先頭に立っていた山谷の発言に対してリベラルの一部が支持したと指摘。これ自体は事実である。千田氏の論考タイトルにある「ねじれ」はこのことを示しているのだろうか。これについて、このテキストの後半で再度振り返る。)

千田氏は「緊張関係」として(狭義の)GIDトランスセクシャルと(広義の)トランスジェンダーの間にあるものを挙げたあと、特定の「トランスジェンダー活動家」の発言を非難し(後述する)、さらりと「ジェンダーアイデンティティの尊重と女性の権利」の間のコンフリクトに論点をずらしていく。なかなか巧妙である。
(※6/29追記:そもそも、存在しないはずの「コンフリクト/衝突」を演出するのは差別の常道だ。「トイレにおける安心・安全」もそのひとつだが、本来解決すべき問題から目を背けさせ対立を煽ることで得をするのは誰か?言うまでもない、対立させられている双方に対してマジョリティである者・・・この場合はシスジェンダーの男性である)

千田氏は日本学術会議によるトランスジェンダーの権利擁護提言に触れたあと、

こうした変化は、私たちの社会が、「女性スポーツ」や「女子トイレ」といった性別2分法を前提として、公正や安全をつくりあげてきたかを、ぎゃくにあぶり出す結果になっている。

と指摘する。「スポーツの公正」と「トイレの安全」は全く別の問題であるにもかかわらず、並べて書くことで関係があるかのように印象づける。しかし「関係がある」とは言わないあたり、実に巧妙である。 続けて

女子スポーツは、「女子は男子よりも肉体的にハンデがあるから、別の枠組みでスポーツを競うことが公平である」といった前提に依拠している。
しかし歴史的には、どうやって「女」を定義するかに苦慮してきた。

と書いている。

これも論述の順序による見事な印象操作だ。 スポーツにおいて男子と女子が別カテゴリーに分けられるのは、歴史的には「男子のみに与えられてきたスポーツ参加の権利を女子にも解放するにあたり、別カテゴリーを設けた」というべきである。さらにいえばスポーツ自体が主に「男性ジェンダーらしさ」を競うものとしてルールを確立してきていることにも注意が必要だろう。そしてさらに「女性は男性に劣る存在である」と見せつけるためのルールがいくつかあることにも注意が必要である。 そして、その歴史のうえに「どうやって『女』を定義するかに苦慮してきた」、厳密にいえば「あらゆる手段で『男』と『女』を識別しようとしてきたが、ことごとく失敗している」というのが正しい。

以上のような歴史を脇におくと、「女子は男子よりも肉体的ハンデがあるから〜」というのは、たしかに人びとの間で「前提」とされてきている。 しかし、オリンピックにおいても、かつては男女混合で行われていた競技で女子選手が活躍すると参加が規制されて「女子」種目が新設された例がある。また、女子選手の記録のうち男子選手と同時に競技をしたものは区別され、公式記録と認められない事例もある。
スポーツのパフォーマンスにおいて男性と女性で差が見られる場合、その本当の要因はどこにあるのかは未解明であり、丁寧にみていく必要がある。テストステロンの値などというのは、単に「現在公式なものとして用いられている」だけのことであり、それが科学的に公正であるという結論は出ていない。

千田氏はトランスジェンダー活動家である尾崎氏の名を挙げてツイートを晒している。 単体で取り出してみれば議論を呼ぶツイートであることは間違いない。 しかし、マイノリティ当事者の、既に取り消して謝罪を表明しているツイートを殊更に取り上げることに「公正さ」はあるのだろうか。それも背景にある様々な文脈を無視して、である。

さらに、学術会議の提言について、尾崎氏の論文が根拠とされているようなことを指摘している。 (これについては調べてみた→後述※) マイノリティの特定発言に殊更にフォーカスし、その属性に対する「嫌悪・恐怖」を煽るのは、典型的な差別扇動の手法である。

※学術会議提言には「一部のフェミニストのあいだには、女性身体ゆえに被害・抑圧を受ける女性の経験を重視する立場からトランス女性の「男性」としての経験を批判して、トランス女性を排斥しようとする動きがある」と指摘する部分があり、その参考文献としてアジア女性センター発行「女たちの21世紀」の各論文を挙げている。その本に尾崎氏の論文が含まれているが、学術会議提言がそれを参考にしたかどうかは明示されていない。尾崎氏を非難することにより、学術会議提言の権威を貶める効果がある。

千田氏は毎日新聞に掲載された、自民党の勉強会における差別を批判した記事での弁護士の発言を紹介したあと、

この弁護士の「手術の有無や身体的な性差によって異なる取り扱いをすることは合理的な判断だ」、「トランスジェンダーかどうかは、性別変更の有無やホルモン治療歴などを調べればすぐにわかります」というのは、国際的な基準では明らかに、トランスジェンダー差別である。

と書いている。これも現状を無視して「こんなことですら『差別』と扱われてしまうのだ」と恐怖を煽る言説と言っていいだろう。 弁護士の発言については毎日新聞の有料契約をしていなくて読めないので省くが(※6/29追記:情報提供してくれた方によると、元の弁護士による発言の趣旨をかなり歪めているようである)、たとえば医療的な場面においては「その人に応じた対応」が必要であり、その人の状態に応じて様々な対応をすることが「差別」とされるわけがない。 (むしろ、たとえば男性を基準とした投薬が女性には適当なのかなど、適切な対応が必要な場面は多々ある) そこから

ジェンダーアイデンティティの尊重とは、原則的に、医師による治療や診断や手術や、性別変更の有無を問うことなく、そのひとのアイデンティティを認めることであり、疑いを表明することがまさに差別そのものとされているのだ

と展開する。「ジェンダーアイデンティティの尊重」を最大限に拡大解釈したうえで、現在の性別二元論による社会的区分に一切の疑義を唱えず、そこに存在しうる「合理的配慮」を無視したうえで「全てが差別にされてしまう」と恐怖を煽る。 見事なミスリーディングであり、いわゆる「セルフID」デマである。

実際に「本人の申告で(外部のゲートキーパーによる判断を経ずに)性別変更が可能な国」は存在する。ならば「 その国で」どんな変化が起きているかを丁寧に検証すべきだろう。少なくとも「性暴力が増えた」とか「女子スポーツがトランスに乗っ取られた」みたいな報告はない(ただし、それを示唆してみせるようなデマは流通している)。

千田氏は

カナダ出身のトランスアクティヴィストの女性に、「ユニセックスのシャワー室で、男も女もトランスも、みんながお互いの裸体を見るのは対等。女性だけが見られるわけではない。それになんの問題があるの?」と言われたこともある。

としたうえで

>かつて山谷議員らが行っていたジェンダー・フリーバッシングの際には、「男女同室着替え」などの実際には存在しないデマが煽情的に利用されてきた。しかしいまや、「男女同室着替え」はデマではない。諸外国では事実であり、むしろ先進的な取り組みと目されている。

と展開しているのだが、これも検証が必要だ。 「アメリカでは『体操服』というものがないので、学校での全員同時着替えそのものがない」という指摘もある。
スタンフォード大などリベラルな大学の寮において「ジェンダーニュートラルな部屋(2−4人部屋)」というのはあるらしい。それは本来「男女別が馴染まない人」向けに用意されているもので、従来の性別分離による部屋もある。ただ、それを知らないまま区分け会議を欠席したため、人数の都合で勝手にニュートラル部屋に配分されてしまったという事例はあるようだ。この事例については「本人の希望を確認しなかった」という批判が必要だが、さて千田氏がカナダのアクティビストから聞いた「ユニセックスのシャワー室」とはどういうものだったのだろうか。
旅行で泊まったドミトリーが男女分けされておらず戸惑ったという人の報告もある。ただ「着替えはシャワー室で行ったので問題なかった」という。 スウェーデンでは割と男女を気にせず人前で着替えるという話も見かけた。身体についての羞恥心は国によってずいぶん違う。私は同性であろうが他人に身体を見せることには非常に強い抵抗があるが、ある程度は「その社会に合わせる」しかない諦めもある。こういう曖昧かつデリケートな問題をトランス排除扇動に使うのは悪質だと思う。

女性に性的指向をもつレズビアンは、「トランス女性」を恋愛対象にしないことが「トランスフォビア」と認定されることもあり、

という主張は、もう端的に「デマ」と言っていいだろう。「恋愛対象」の選択は非常に個人的なことであり、基本的には他人が「差別だ」などと介入すべきものではない。
文脈のわからない人にはあまり関心を呼ぶ話題ではないかもしれないが、レズビアンのイベントでトランス女性が参加を断られて炎上した事件があった。主催者側が謝罪して最終的に収まり、イベントは続いているのだが、今でもトランスフォーブによって「イベントが潰された」というデマが繰り返し流されている。上記の千田のデマは、このデマとリンクして広がっているものである。

(6/29追記:

千田氏は論考の末尾で共産党ジェンダー平等委員会の見解を引用しているが、なぜか出典を示していないのでこちらにリンクを張っておく。

www.jcp.or.jp

 

千田氏はこの見解の中にある

「あおられている人も含めて、すべてを『差別者だ』と決めつけ、糾弾するようなやり方は、反発と分断を生むだけで、問題の解決にはつながりません」と注意喚起をする事態になっている。

という部分だけを引用している。確かに高圧的に糾弾するばかりが問題の解決方法ではないし、ただ一方で「差別される側がいつまで我慢しなければならないのか」とも思う、この見解の中で唯一気になった部分でもある。

 その前段で千田氏は

トランスを積極的に推進してきた共産党ジェンダー平等委員会責任者でさえも、

と書いているのだが、これは一体どういう意味なのだろう。
「トランスを推進」というのが日本語として成り立っておらず、意味が分からない。「トランスの権利擁護を推進」ということであれば、いろいろと批判を受けて紆余曲折しながら差別反対のスタンスを確立するに至ったというのが私の見立てである。そのあたりは、上記の倉林議員インタビューを読んでそれぞれに考えてもらえればと思う。

千田氏の論考の中で欠けているのが「現在の性別分離スペースはどのように運用されているか」という点である。 結局それは、「だいたいの見た目」で運用されているに過ぎない。そして、それには若干の問題も抱えつつ、広く受け入れられている。「ペニスの有無」だの「戸籍」だので区分されているという認識自体が幻想にすぎない。まずはその現実を踏まえることからスタートすべきではないか。現状の変更を要求しているのは「戸籍で区分しろ」「ペニスがある者は女性スペースに入れるな」と主張している側である。(なお、スポーツに関しては事情が異なる。IOCが「性別変更」をしたアスリートの出場を認めたのは2004年で、2015年に条件を変更している。21年になり、はじめてトランスした女性が女性カテゴリで出場権を獲得し、話題になっている。この件は今回は詳述しない)

(6/29追記:

そして、もういちど振り返っておこう。千田氏が取り上げた山谷えり子議員の発言である。氏はこの発言そのものに対しては賛成とも反対とも言っていない。だが、

ラディカル内部の紛争に嫌気がさしたLGBT当事者たちが野党から離反し、与党側にまわる傾向は確実にある

と書く。「リベラルの一部」が山谷になびくことを肯定し、それによって「野党」に恫喝をかけているようにも読める。

千田氏の主張のうち、

例え同性間であっても、安全やプライバシーの担保がされない場合もあるだろう。性別による分離だけでは、安全性は確保されない。配慮のある制度設計が考えられる必要がある
脆弱性をもつトランスジェンダー当事者のみならず、女性も、そして男性も、すべてのひとの安心や安全が守られる施設の作り方や制度のあり方を、考え直す必要があるのではないかと考える

というのは全面的に同意できる部分である。 ただ、それを「一緒に考えよう」と言っても話を逸らしてしまうトランスフォーブに出会うことが多い。「そういう人たちに対して」千田氏から「丁寧に議論しよう」と呼びかけてほしい。 (なお、実際にはLGBT活動団体や設備メーカーを交えた議論や工夫は既に進められていることを申し添えておく)

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