「科学的社会主義」はトランスジェンダー差別を許さない

科学的社会主義」という言葉は、一般には馴染みが薄いかもしれない。
世間で「マルクス主義」と呼ばれるものとだいたい同じと考えてよいだろうが、特定個人の思想に留まるのではなく、さらに発展的な思想体系という意味で使われている名前だと、私は解釈している。

その「科学的社会主義」の世界観をトランスジェンダー差別の正当化に使っているものを見かけて、愕然とすると同時に強烈な怒りを覚えた。そもそも「社会主義」とは、人びとの幸せを願い、実現しようとする中で生まれた思想である。たとえ世界で失敗続きだとしても、原点はそこにある。
「誰かを排除する」目的にその理論を使うなど言語道断だし、当然ながら理論的にも間違いだらけである。それを批判する目的で、このテキストを残しておく。

 

記事が掲載されたのはトランス差別主義的な投稿ばかりを集めたサイトなので、あまり見ることはおすすめしないが、記事本体は一応アーカイブを保存したので張っておく。http://archive.today/xG4Kh
この記事の著者(以下「N」とする)のいう「トランスジェンダリズム」というもの自体がトランスジェンダー排除主義者たちによる藁人形だが、そこは一旦脇におき、「科学的社会主義」を差別に援用している部分について批判を行う。

記事より引用
まず、科学的社会主義の哲学的基礎である弁証法唯物論とは「観念は物質的な現実と一致する場合にだけ真実」という考え
これは端的に言って誤りである。そもそも唯物論は観念というものを「脳の働きによるもの」と見做すだけであって、「物質的な現実と一致するかどうか」などという価値判断は一切含まれない。

唯物弁証法弁証法唯物論)とは、ヘーゲル弁証法フォイエルバッハ唯物論マルクスエンゲルスが融合的に発展させた哲学である。両者の「融合」と「発展」が重要である。
唯物論では「観念はすべて物質的なできごとの反映」とし、たとえば人間の認識・思考・感情といったものはすべて「脳のはたらきによるもの」として捉える。脳の働きには未解明のところも多いが、未解明のものは未解明のまま(いずれは解明がすすむものと考えつつ)受け止めるのが唯物論である。
ジェンダーアイデンティティの在処はいまだ解明されていないが、「脳の働きのどこかに要因がある」のだから、唯物論的に何の問題もない。現に、リアルに存在しているのである。Nが「身体違和がないにもかかわらず性自認のみで性別を変更するのは観念論」として否定するのは、トランスジェンダーに対する偏見・差別的な解釈であると同時に、唯物論を「人の心について考えない冷酷な学問である」といって否定する観念論者とそっくりでもある。Nこそが観念論者なのではないか。
また、唯物論をただ唯物論で終わらせないところが「唯物弁証法」である。弁証法では物事の関連性、連続性を重視する。Nはエンゲルスの「自然弁証法」あるいは「フォイエルバッハ論」を読むべきであろう。Nの哲学はヘーゲル弁証法を批判したフォイエルバッハの水準に留まっているように思える。フォイエルバッハから抜け出し、ヘーゲルを発展的に継承して唯物論と融合させたのがマルクスの哲学である。
ジェンダーとは、あるいはセックスとは、ナタで割ったように2つに分けられるものではなく、そこには分離しがたい連続性がある。唯物弁証法は必然的に性別二元論も批判するのである。さらに言うなら、ジェンダーとセックスも完全に分離できるものではないと私は考える。たとえば「生と死」という境界ひとつをとっても、それは「だいたい区別できる」ように見えて、厳密に扱おうとすればするほどむしろその連続性が露わになる。そこが脳死などを考える際の難しさでもあるが、そういった連続性をそのまま受け止めようというのが弁証法の立場である。
何らかの必要性に基づいて、連続性のどこかに境界線を引くことはある。その際には「何よりもまず人権を損なわないよう慎重に判断すべきである」ことは言うまでもない。

続いてエンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」について。エンゲルスは社会的にジェンダーが構築され、男性が主導権を握っていった歴史を解明した。しかし、ここから導かれるのは「ジェンダーの解体」ではなく「ジェンダーの平等」が必要である、という認識だ。決して「ジェンダーの解体」ではない。ジェンダーによる役割分担(ジェンダーロール)の強要をやめ、平等な社会にしていく必要がある。また、同時に「ジェンダー平等」には、性別二元論に収まらない人びとも当然「平等に」ということが含まれる。
さらに補足するなら、エンゲルスは19世紀を生きた人である。20世紀後半になってようやく社会的に認知されるようになった性的マイノリティについて知見がないのはやむを得ないだろう。そういう意味では現代の社会主義にとっては「新しい問題」なのかもしれない。
マルクスエンゲルスの理論を土台にするからといって、全てが彼らの認識や著作から導かれるわけではない。彼らがどれほど偉大であるにしても、決して超人ではない。それを認識するところに、個人名を冠さず「科学的社会主義」と呼ぶ意味があるはずだ。

Nの論でどうにも不思議なのは、「日本共産党員である」と自称しながら、綱領には一切触れていないことだ。今年20年1月に採択された同党の綱領では「性自認を理由とする差別をなくす」と明記されている。共産党員にとってはそれこそ「土台」のはずだが、なぜ触れないのか。自分には都合が悪いからか。自分の思想とは対立するからか。

トランス排除主義のフェミニストたちは自分たちを「ジェンダークリティカルフェミニズム」と位置づけ、「ジェンダーの廃止」をうたう。しかし実際には身体的に、というよりも出生時に医者が割り当てるだけの「男/女」という区分にジェンダーを「縮小化」するものでしかないと思う。それでは「不平等」は永久になくならない。必要なのは「不平等をなくすこと」である。

繰り返しになるが、性的マイノリティの人権保障という問題は、現代の社会主義にとって、あるいは共産党にとっては「新しい課題」なのかもしれない。ただ、科学の最先端では既に答えは出ている。日本学術会議による提言もそのひとつである。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/kohyo-24-t297-4-abstract.html
また、従来は主に医療の対象という観点から扱われてきたトランスジェンダーが、医学的にも「人権」という観点から扱われるようになっている(参考:「性別違和・性別不合へー性同一性障害から何が変わったか」針間勝己、緑風出版)。

トランスジェンダーの権利は、人権問題である。そして、それは(シスジェンダーの)女性と対立するものではない(トランスジェンダー女性は、トランス差別と女性差別の複合差別を受ける)。

私がこの件にこだわるのは、外から見ているかぎり、日本共産党がトランス差別に対して「明確に批判する態度をとっていない」ことが気にかかるからである。このテキストで批判対象としたNの投稿と同じサイトに、著名な作家である笙野頼子が「共産党の見解」とする文章を寄稿している。これだけを読むと、まるで共産党がトランス差別を容認しているかのように見える。
実際には、どうも笙野がトランス差別に都合のいいところだけを切り取って紹介しているようだ。しかし、そうであるなら、共産党は笙野に対して「意図的な切り取りをするな」と抗議すべきなのではないだろうか。笙野はその記事の中で「IstandwithJKR」と書いている。「JKR」とはハリー・ポッターシリーズの原作者であるJKローリングのことである。彼女は今トランス差別主義者であるとして、ハリー・ポッターの映画に出演したダニエル・ラドクリフエマ・ワトソンらから批判を受けている。その名前をあえて挙げるのは「トランス差別に参加する」という宣言と解釈するほかない。

笙野頼子の寄稿に関して、「ゆな」さんというトランスジェンダー女性として様々な発信をしている方がメールで共産党に問い合わせたと、その内容を公開している。いわば「公開質問状」だ。

snartasa.hatenablog.com

私自身は、Nが本当に日本共産党員なのか、N個人に党としてどう対応するのか、といったことにはあまり関心がない。多少の縁があり、応援もしている共産党が、「党全体として」トランス差別をなくすためにどう行動するのか、かなりの不安と焦りを感じつつ見守っている。
日本共産党は、私の理解が間違っていなければ、今年(2020年)の大会で採択した修正綱領において「ジェンダー平等を実現」「性的指向性自認を理由とした差別をなくす」という条項を新たに盛り込んだはずである(それまでも「女性差別をなくす」という項目はあったはず)。「なくす」というのだから、その言葉にふさわしい積極的な行動がほしい。また、トランスジェンダーであることを公表している議員も共産党に所属している。彼女を差別から守る責任もあるはすだ。

共産党と関係の深い新日本出版社から「ひとりひとりの『性』を大切にする社会へ」という本が出ている(著者は遠藤まめた氏)。筆者自身がトランスジェンダーであり、全3章のうち第2章が丸々トランスジェンダーに充てられている。トランスジェンダー差別のことが「わからない」という人には、読んで理解してほしいと思う。(同じトランスジェンダーといっても、FtとMtでは劇的な違いがあるのだが、まあ)

ともかく、まずはゆなさんの公開書簡に誠実な応答をしてほしいと思う。

 

(追記)声明が出たので貼っておく。

k2g.hatenablog.com